不起訴となったものの、山中は、役場で閑職を強いられた後、病院に隣接する保健センター長を務め、町を出た。自分が愛した町を出る辛さを「それは寂しかったです。慕ってくれる人がたくさんいたのでね」と語る。2度目のトイレに出かけた山中は、軽快なステップで戻ってくると、話を続けた。
「死の現場で、ベテラン医師なら絶えず冷静さが保てるかというとそうじゃない。宮下さんの記事に登場する人は極めて冷静。それは法律が確立しているから出来ることでしょうけどね」
山中は、突然、安楽死合法国の制度を妬むような顔をしてみせた。ただし、スイスやオランダでも本人の意思なしで死が遂げられることはありえない。患者が意思表示できない時は、どんな解決策があるのか。
「それはやっぱり、家族との相談がまず大事になってくるでしょう。それは、患者さん本人にとって一番大事な分身といいますかね」
多田さんの妻や娘たちの了解があれば、安楽死があっても良いという意味合いになるが、患者の多田さん本人にガン告知さえなされていない。山中の発言には、不整合が生じる。
その一方で、私個人としては、この血縁的な考えに必ずしも反対はしていない。山中は、自らの苦しむ姿を、自らの分身たる家族に見せたりするのは、「ヒューマニスティックではない」と言う。この思考は、残される家族に苦悶の姿を見せないためにも、安楽死を認めることが望ましいという欧米型の論理に類似する。