つまり、医師としてではなく、家族の領域に入ったと言いたいのだ。それは地域医療最前線を担った医師にしか分からない領域だと言えるのか。
私は海外で一年間、安楽死を取材してきたが、生を全うするもしないも個人の意思に基づく、という考え方になかなか馴染めなかった。山中の主張には、私の日本人的なる部分が共感を示す。ただ、ひとつ気になることがあった。彼の話を遮り、質問した。
先生は、動揺という言葉を繰り返していますが、冷静な判断だったら、あのような形の死にはなっていなかったと? ベテラン医師は、私としては、言ってほしくない言葉をさらりと吐いた。
「うん、だから冷静だったらね、逆に何もしないかもしれない。何もしないのが一番よかったなと、今、思っています」
スイスのエリカ・プライシック女医(*)も、特定の患者に対しては、後悔の念を抱くことがあるといった。しかし、後悔するくらいなら、他人を安楽の世界に導かないほうがいい。
【*スイスの自殺幇助団体「ライフサイクル」主宰者。1年間で80人もの患者の死を手助けする(自殺幇助)の反面、筆者の取材に「すべての幇助が正しいとは限らない」と、内面を吐露していた】
そしてもうひとつ、山中の言い分に解せない部分があった。欧米で行う安楽死の条件の中には、必ず「本人の明確な意思」が、医師側に表示されていなくてはならない。そこでようやく「個人の死」が成立し、家族も納得する。それなくして、医師が患者家族という2人称の世界に土足で侵入し、死を手助けすることがあってはならないと思う。なおかつ、多田さんはガン告知されていなかった。
山中は、ガン告知について、「今でも、僕は(告知を)100%すればいいとは思っていません。すべき人にはする、すべきでない人にはしない」という彼なりの哲学を持っている。もし彼がそう考えるのであれば、私は、なおさら安楽死に繋がる行為をすべきでなかったのでは、と感じてしまう。