◆そして町を出た
怒り肩の山中は、私の横に設置されていたホワイトボードの前に立ち、マジックペンを手に取った。事件の2か月後には、全国ニュースとして取り上げられた多田さんの死について、彼独自の論理を証明しようとしていた。
彼は、ボードに一本の長い横線を書く。右端は「生」、左端は「死」。その横線を十字する形で縦線を引き、そこに「ミドルワールド」と記した。これは「臨終状態」を意味する言葉らしい。
「私が赴任した昭和43年頃は、京北は僻地で、山林事故が相次ぎました。意識障害で手術をする。さあ、どっちに行くかという時に、こちら(右)に戻る人も結構いる。だけど、ガン末期の人は絶対こっち(左)しかない。マスコミの皆さんの一番の欠落部分は、どんな時間帯だったかなんです。(多田さんの場合は)死のラインを半分またいだ状態でした。12時間以上、臨終の時間帯が続いていましたから」
余命については医学的根拠がない。この臨終間際のミドルワールドの中の判断は、山中の経験上の「勘」であるとしか言い様がない。
この小さな町で、しかも1990年代の日本で、安楽死とは如何なる行為であるのかを理解している人は少なかったはずだ。事件が露見したのも、看護師たちの内部告発が原因だった。山中は住民には「教祖様」と崇められる反面、病院内のスタッフに厳しい一面をみせることもあったと聞く。
閉ざされたコミュニティ内で募っていった山中への鬱憤は、思わぬ形で発露することになった。一方で、この告発がなければその後も山中は村人たちの「教祖様」であったことだろう。