逆に、「太平洋戦争」では無く「大東亜戦争」という正確な用語を用いれば、当然視野も広がる。海軍によるアメリカの真珠湾奇襲だけで無く、陸軍による英領コタバル奇襲が視野に入ってくることもそうだが、ここで読者に一つ質問をしたい。

 あなたは、この大正初期の時点で大日本帝国が取るべき道は、最終的に採用された英米との戦争対決だったと思うか? それとも、陸軍の意向に逆らう形で海軍や大隈重信、加藤高明らの政治家が志向していた英米協調路線だったと思うか?

 おそらく、いまアンケートを取ればほぼ一〇〇パーセントの人が「英米協調路線」が正しいと言うだろう。たしかに、大日本帝国は英米との戦争に敗北したから数百万人が犠牲となり、帝国自体も滅亡した。英米協調路線を取っていれば、そのような悲惨な結末にはならなかったかもしれない。ならば、この時点で英米協調路線に反対していた人間はすべて愚かだったのだろうか?

 そうでは無い。なぜそうなのかを知るためには、視野を広げてものを見るしかない。「対華二十一箇条(実際には17箇条)」を袁世凱がしぶしぶ受け入れた一九一五年(大正4)、この年は十一月に大正天皇の即位式があったのだが、普通の年表にはまず掲載されていない重大事件が十二月にあった。ラス・ビハリ・ボースという当時来日していたインド人の身の上に関することである。念のためだが、彼は後にインド国民軍最高司令官となったチャンドラ・ボースとは別人だ。

〈ラス・ビハリ・ボースは、1886(明治19)年インド ベンガル地方に、政府新聞の書記をしている父 ビノド・ビハリと母 ブボネンショリの長男として生まれました。家は代々武士の階級(インド4階級の2番目)でした。幼少期は母方の叔父のもとで育ち、その後シャンデルナゴルへ、続いて父の転勤でカルカッタへ移り、再び父の転勤があると叔父の家へと移り住み、転々とした生活を送ります。このような家庭環境からくる寂しさや不満が、ボースの革命精神をより増強させていったのです。〉
(『新宿中村屋ホームページ』)

 彼は後にチャンドラ・ボースと区別するため「中村屋のボース」と呼ばれることになるのだが、そうなったのはそもそも彼がイギリスからのインド独立運動の闘士であったからだ。イギリスのインド支配はじつに過酷なものであった。それについては次回詳しく述べるが、当然支配されているインド人のなかには武力に訴えてでも独立を果たそうとする人間が出てくる。チャンドラ・ボースもそうだが、ラス・ビハリ・ボースもそうだった。

 もちろん戦うためには武器が必要だが、インドでは取り締まりが厳しく入手は難しい。そこで彼は、日本で武器を調達しようと考えたのである。ところが、ひょんなことから彼の行動がイギリス当局に把握されてしまった。イギリスは、日英同盟に基づいて彼を日本から退去させるように要請した。国外退去になれば当然イギリスは彼を逮捕拘束できる。そして容疑は反逆罪だから、間違い無く死刑に処せられることになる。

 日本政府が彼に通告した退去期限は、この年の十二月二日であった。

(第1418回へ続く)

【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『「言霊の国」解体新書』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。

※週刊ポスト2024年5月17・24日号

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