ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。今回は特別編、歴史学者の桃崎有一郎氏が提唱する“新説”の問題点について、お届けする(第1419回)。
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「日英同盟のよしみ」「英米協調路線の維持」を重視する大隈内閣によって、日本から退去を求められたインド独立の闘士ラス・ビハリ・ボース。本来ならば彼の去就について述べるべきなのだが、今回は再び「特別編」とさせていただくことをお許し願いたい。それは、ぜひ申し上げておかねばならないことがあるからだ。
一週間ぐらい前のことだったか、かつて私の担当者だった元編集者から突然電話がきた。読者のみなさんもそうだろうが、最近はメールかラインで済ませることがほとんどだ。電話がかかってくることなど滅多に無い。なんだろうと思って慌てて電話に出てみると、彼は「井沢さん大変ですよ!」と、突然言うではないか。
「いったいどうしたの?」と訊ねると、口頭では簡単に説明できないからメールを送るという。添付した文章を見てくれ、ということらしい。どうも急いでいるようだったので眠い目をこすって添付の文書を開き、そして彼に感謝した。それは月刊誌『文藝春秋』二〇二四年三月号に掲載された、ある歴史学者の論文、というか歴史的論考であった。
それは「画期的新説」と大見出しがついた「邪馬台はヤマトである」という内容のもので、「それはどこにあったのか? まったく新しい角度から世に問う」というキャッチもつけられている。そして「歴史学者 桃崎有一郎」の署名があった。古くからの本連載の愛読者ならばこの論考のなにが問題なのかおわかりだろうが、最近は若い読者のみならず中年の読者でも問題点がわからない方が多いかもしれない。まず煩をいとわず、ご本人の主張を引用しよう。
〈邪馬台国論争を解決から遠ざけてきた最大の誤りは、「邪馬台国」を「ヤマタイ国」と読んできたことだ。学校教育で「ヤマタイ国」と誤った読みを教えてきたのは、実に理解に苦しむ。「邪馬台」を「ヤマタイ」と読むのは新井白石あたりに始まるようだが、それが正しい証拠は、ただの一度も示されたことはない。
「邪馬」を「ヤマ」と読むのはよい。問題は「台」だ(正確には旧字体の「臺」だが、以下「台」と同じとして話を進める)。
古代中国の南北朝時代・隋・唐(五~一〇世紀)では、確かに「台」は「ダイ」に近い発音だった。しかし、三世紀に書かれた『魏志』倭人伝やその原資料が、ある日本語の地名を「邪馬台」と音写した時に最も近い頃、中国の「台」の発音は、「ダ」と「ドゥ」の中間のような音だった。(中略)
かつて、江戸前期の松下見林という国学者は、著書『異称日本伝』の中で、「邪馬台」を「ヤマト」と読み、「大和」と同じだと結論していた。後世の人が、なぜこの結論をきちんと検証せずに捨て去って「ヤマタイ国」にしてしまったのか、不思議だ。我々は、「ヤマタイ国論争」とは訣別せねばならない(以下略)。〉