しかし「飛鳥時代」においては首都は難波(大阪府)や近江(滋賀県)にあったこともあり、飛鳥(奈良県)には固定されていなかった、首都が固定したのは持統大帝(と私は呼ぶ)が当時の先進国の中国を見習って「藤原京」という形で都を固定してからで、それまでの日本は天皇一代ごとに首都を移転することが原則になっていた。この「ルール」は『日本書紀』にも明記してあるのだから、「藤原京」以前は「首都流転時代」、それ以後は「首都固定時代」と呼ぶべきだと、私はかねがね主張している。だが歴史学界は、これも無視している。
「安土桃山時代」も変だ。というのは、織田信長の政権所在地はたしかに安土だが、豊臣秀吉の政権があったのは大坂(大阪)あるいは伏見であり、その時代は桃山という地名では無かった。にもかかわらず、おそらく学界の大先輩がそう決めてしまったからだろう、彼らはいかに私がそれは変だと主張しても「外野の声」などと無視して一向に改めようとせず、最近は「織豊政権」などと言ってごまかしている。
そのくせ、韓国から「差別だ」と抗議が来ると、それまで「帰化人」と言っていた古代に朝鮮半島から日本にやって来た人々を慌てて「渡来人」などと改める。「帰化」という言葉には差別的な意味は無い(だから現代でも普通に使っている)にもかかわらず、である。
自分たちだけが歴史を研究する資格があり、それ以外の人間(日本人)の言葉はそれがどんなに正当性を持っていても無視し侮蔑する。多くの「歴史学者」にそういった態度が見られるのは、じつに嘆かわしいことだ。
典型的な例をもう一つ挙げよう。「豊臣秀吉の右手の指が六本あった」ということは、実際に秀吉に会った宣教師ルイス・フロイスと、秀吉の「生涯の友」であった前田利家がともに証言しており、秀吉が「先天性多指症」であったことはほぼ確実である。このことはすでに『完訳 フロイス日本史』の翻訳者である松田毅一博士も、著書『西洋との出会い』(大阪書籍刊)で述べている。
ちなみに、この本には前田利家史料の原文は掲載されていない。それを金沢まで行って図書館で見つけ、日本で初めてその原文を書籍(『言霊』祥伝社刊)で紹介したのは、他ならぬ私である。これについてはYouTubeの『井沢元彦の逆説チャンネル』の「【衝撃】豊臣秀吉の指は6本だった?その根拠とは…!?」でも該当部分をご紹介しているので、ご覧いただきたい。にもかかわらず、インターネット上では多くの人々が私が見つけ出した史料を無断引用している。困ったものだが、そもそもそうなってしまうのも歴史学界が私の「業績」を一切認めようとしないからである。
ところで、歌舞伎役者の中村獅童さんが次男の歌舞伎デビューにあたって、「息子は手の指が四本しかない」と公表したことは、ご存じだろうか? 大変立派な行為で、同じ境遇に生まれた人々に勇気を与えたと私は思う。そして、私がもしNHK大河ドラマの監修を担当する歴史学者なら、「秀吉を出すなら、『6本指だった』という事実は避けてとおるべきではない」と言うだろう。こうした「異常への差別」が秀吉の破天荒な行動力のバネになったことは誰にでも想像できるし、「秀吉もそうだったんだ」と多くの人が認識することは、偏見を解消することにもつながる。
だが、みなさんもご存じのように大河ドラマで「六本指の秀吉」が描かれたことはいままでただの一度も無い。奇しくも二〇二六年の大河ドラマは『豊臣兄弟!』だという。中村獅童さんの勇気に応えるためにも、秀吉の実像をぜひ描いてもらいたいところだ。
いまの歴史学界の現状では期待するだけ無駄かもしれないが……。
(第1420回へ続く)
【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『「言霊の国」解体新書』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。
※週刊ポスト2024年6月7・14日号