上皇ご夫妻(時事通信フォト)
火事と葬儀だけは地域で面倒を見る
そもそも「故人の骨を悼む」現代の葬儀の形が明確になり始めたのは江戸時代中期以降。平安時代までは葬送の地に運んで遺棄する「風葬」が一般的だった。京では鳥辺野(とりべの)、蓮台野(れんだいの)、化野(あだしの)などの郊外がそれに選ばれ、運ぶだけの人手がなければ、道端や河原に投げ捨てられた。
「弔い」は仏教の普及に連動してきた。鎌倉時代に浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、曹洞宗の道元、臨済宗の栄西、日蓮宗の日蓮など現代につながる仏教家が次々に輩出され、教えを広めていった結果、「葬儀」が行われるようになった。ただし、それでも火葬されるのは一部の「殿上人(でんじょうびと)」に限られていた。
江戸時代の火葬の一般化は、幕府が「寺請(てらうけ)制度」によって寺に庶民を管理させるようになったことに起因する。庶民は言わば自動的に檀家制度に組み込まれ、僧侶に葬儀と法事を依頼し、先祖供養の墓も建てるようになった。
それに伴い、村八分となった人でも火事と葬儀だけは地域社会が面倒を見るという不文律のもと、地方では葬列を組んで野辺送りをし、都会では町内会の隣組が喪家の面倒を見て、火葬場で荼毘に付すといういまの葬儀に通ずる形式が確立され、昭和の中頃まで続く。やがて葬儀社が地域社会に代わって取り仕切るようになり、病院から斎場に送られて通夜告別式、火葬場での拾骨、霊園への納骨という“流れ作業”のような形が一般化し今日に至るが、そのスタイルは現在ふたたび大きな変化を余儀なくされている。
国内では無縁社会の進行やインターネットの普及に伴う葬儀価格の「見える化」、少子高齢・核家族化による墓じまいの横行、「死は穢(けが)れ」という意識が希薄になったことによるビジネス化の進行などを背景に“流れ作業”の見直しが進む。その一方で世界を見渡すと、世界遺産の火葬場もあればレストラン併設の観光地化する斎場があり、火葬場と斎場をファッショナブルな施設として親しむ動きも広がりつつある。
誰もが「ひとりで骨になる」可能性のある現代、多様化する「最期の在り方」を前にいま必要なのは「私たちはどう弔いたいか、弔われたいか」という意思と構想力だろう。弔いの根幹であり、終着点でありながらも長らくベールに包まれてきた「火葬」を紐解くことで「今後の在り方」を考えていきたい。
まずは、日本国民の統合の象徴であり、弔いを「儀式」として確立した天皇家の葬送の歴史を辿ることから始めたい。