明治天皇は31の儀式を経て土葬された
葬儀と陵も、天皇家の神格化に使われる。
胎動は国学による尊皇の動きが活発化した幕末からで、明治政府の樹立宣言「王政復古の大号令」(1867年)に記された「神武創業(初代天皇の時代に基づくの意)」を現実化するためには神武天皇の墓が必要だとして、天皇陵探しの末、奈良・橿原市の畝傍山(うねびやま)のふもとに神武天皇陵が築かれた。鳥居と玉砂利の拝所などは伊勢神宮を模しており、その形式は武蔵陵墓地などにも引き継がれている。
日清・日露の戦いを制し、文字通り日本を欧米列強に並ぶ存在にした明治天皇は、1912(明治45)年に崩御。葬儀は古式に則り、7月31日の拝訣の儀から始まって殯宮での数々の儀式、本葬である劍葬の儀を経て山陵(伏見桃山陵)に移して、翌年8月2日の皇霊殿親祭の儀まで31の儀式が行われ、土葬された。
63年の長きにわたって天皇を務められた昭和天皇は、1988年9月19日、大量の血を吐いて倒れた。そこから崩御の1989年1月7日まで予断を許さない事態が続き、各地のお祭り、企業や学校の祝賀行事、クリスマスや正月の祝い事などはすべて自粛された。
戦前に存在した「国葬令」が敗戦によって失効したため、葬儀は国葬ではなく天皇家の「私的行事」として本葬にあたる「劍葬の儀」と、政府主催による無宗教形式の「大喪の礼」が執り行われ米ブッシュ、仏ミッテランなど多数の弔問客が出席した。葬儀は壮麗なものとなった一方で当時の日本は長きにわたり「自粛ムード」に覆われた。
明仁上皇が、自らの老いと葬儀を想定して「おことば」を発したのは、2016(平成28)年8月8日だった。祈ることと寄り添うことを柱とした象徴天皇制を模索してきた上皇が、国政に関する発言を控えねばならないのを承知で、「生前退位」に言及した「おことば」は衝撃的だった。
『東京新聞』の宮内庁担当記者を務め、いまは皇室ジャーナリストとして『令和の「代替わり」』(山川出版社)を著した吉原康和は、次のように感じたという。
「象徴天皇の務めが体力的な限界でできなくなれば、潔く退位すべきという象徴天皇のあるべき姿を国民に問う決断だったのではないでしょうか」
天皇は歴代、民族文化の連続性を確保し、ほぼ象徴としての役割を果たしてきた。国民は東日本大震災の被災地を訪れ、膝をつき、目線を合わせて被災民に言葉をかけ、サイパンやパラオといった戦地を訪れては深々と頭を下げる上皇ご夫妻を敬愛している。
ただ、国民の思いはさまざまだ。
右翼民族派の重鎮である犬塚博英・八千矛社代表は、今年も5月25日の楠木正成の命日に、祭主として「楠公祭」を全国から100名以上を集めて乃木神社で執り行った。犬塚は「楠公の『尊皇絶対』の精神に学び続ける」と述べ、「楠公祭」の継続を誓った。
戦地には赴いても靖国神社には参拝されない上皇ご夫妻への悲痛な思いが、2018年6月、小堀邦夫宮司の「陛下が慰霊の旅をすればするほど靖国から遠ざかる」という不適切発言となり、小堀宮司は職を辞した。
それぞれの思いは受け止めつつも天皇家は、「象徴」であり続ける。「おことば」では天皇に深刻な事態が訪れた際のモガリや葬儀に関する行事が延々と続き、人々に大きな影響を与えることへの懸念を述べた。「昭和の自粛」を意識してのことだ。ひとえに国民への負担を避けたい──その一心が上皇ご夫妻の葬儀の簡素化とそれを踏まえた火葬の決断につながった。
歴史的背景は比べるべくもないが「弔い」の大きな変遷点にいる我々がいま、天皇家の葬送の歴史に思いを馳せるのも必要なことだろう。
400年ぶりの「火葬」での弔いを表明された上皇ご夫妻の陵は武蔵陵(下)に確保されている。
【プロフィール】
伊藤博敏(いとう・ひろとし)/ジャーナリスト。1955年、福岡県生まれ。編集プロダクション勤務を経て、1984年よりフリーに。経済事件をはじめとしたノンフィクション分野における圧倒的な取材力に定評がある。『鳩山一族 誰も書かなかったその内幕』(彩図社)、『同和のドン 上田藤兵衞「人権」と「暴力」の戦後史』(講談社)など著書多数。
※女性セブン2024年6月27日号