初めて火葬された天皇は持統天皇だった
天皇は文化的な連続性の担い手である。8世紀に編纂された記紀(古事記・日本書紀)は、神武天皇以来の「神話の時代」を折り込んでいるが、実在の天皇は第10代崇神からだと考えられている。巨大な陵で知られる第16代仁徳天皇の古墳時代を経て、6世紀末から飛鳥時代を迎え、歴史に名を刻む最初の女帝である第33代推古天皇が592年に即位し、甥の厩戸王(うまやどおう、聖徳太子)が補佐する。
聖徳太子は、6世紀半ば頃に伝来していた仏教の教えと仏像などの仏教文化を“丸のみ”して治世に生かした。
聖徳太子の改革をさらに推進して国家の形を整えたのは天智天皇である。律(刑法)と令(行政)の制度化を図るが、律令国家の完成は、弟の天武天皇、その妻の持統天皇、曾孫の文武天皇の治世まで待たねばならず、大宝律令は701年に完成した。
天皇の祭祀の形も律令国家の進行に連動する。686年に亡くなった天武天皇の葬儀は、長い殯(もがり)の後、発哀(みね)、誄(しのびごと)などの儀礼が続けられた。モガリとは死後、遺体をすぐには埋葬せず、棺に納めて仮安置し、別れを惜しみながらも体から魂が抜け「完全な死者」になったことが確認できるまで一定期間置いておく風習で、ミネとは僧尼による慟哭(どうこく)儀礼。弔いの儀式に時間と労力を割くことで、天皇の権力を証明しようとした。
702年に亡くなった持統天皇は火葬を選択した。日本の火葬は「西遊記」で名高い玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)に唐で学んだ道昭(どうしょう)の700年が最初といわれている。道昭に帰依していた持統天皇が続き、その後の天皇の弔いは火葬と土葬が混在しつつ、室町時代の中期には火葬が定着する形で歴史が刻まれていく。
その間には840年に亡くなった淳和天皇のように遺言に基づき火葬に付された後、遺骨が砕かれて京都の小塩山に撒かれた「散骨」の先駆者も存在した。