ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第十四話「大日本帝国の確立IX」、「シベリア出兵と米騒動 その6」をお届けする(第1429回)。
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モンゴル史に触れるにあたって先に「モンゴル人に姓は無い」と書いたところ、読者から反論というか質問があった。元横綱の朝青龍の本名は、ドルゴルスレン・ダグワドルジというらしいが、これは「姓と名」ではないのか、ということだ。たしかに彼の本名はダグワドルジだが、ドルゴルスレンというのは姓では無く父親の名前だ。つまり、現在は父親の名前の後に自分の名前を記し「姓名」のようにするという習慣ができているのだが、いま問題にしている大正初期にはそんな習慣は無かった。だからバボージャブはただのバボージャブであり、念のためだがチンギス・ハンの「ハン」も称号である。
さて、そのバボージャブだが、悲劇の英雄と言っていいだろう。勇気もあり統率力もあるから、荒くれ者揃いの馬賊集団のなかでリーダーになれた。愛国心いや愛民族心と言ったほうがいいが、まさにチンギス・ハン以来の「モンゴル民族大統一」の理想を抱き、その道をまっしぐらに進んだ。彼にとってモンゴル族、それも自分の生まれた内モンゴルを弾圧と懐柔で支配してきた満洲族の清朝が滅んだことは、まさに大統一への絶好のチャンスだった。
「敵の敵は味方」という言葉がある。バボージャブにとって、清朝に代わって内モンゴルの支配を継続しようとしている中華民国、いや袁世凱の中華帝国は最大の敵であり、大隈内閣のもと「排袁(袁世凱打倒)」を国是として決定した大日本帝国は、最大の味方となった。
ところが、バボージャブの理想にとっての最初の躓きは、前回述べたように彼が馳せ参じたボグド・ハーン政権が中華民国およびロシア帝国とキャフタ協定を結び、外モンゴルの自治権獲得だけで満足して矛を収めてしまったことだった。それでも、「独立軍」となったバボージャブを日本は引き続き支援した。むしろ、日本にとってはボグド・ハーン政権の「紐付き」で無くなったことは「使い勝手」がよくなり、利用価値が高まったとすら言える。
ところで、満洲は清朝時代の行政区画で言えば東三省(奉天省、吉林省、黒竜江省)であったが、このうち奉天省を根拠地とし馬賊集団から地方軍閥の長に昇りつめた男がいた。名を張作霖という。『日本大百科全書〈ニッポニカ〉』では、項目執筆者の倉橋正直が次のように紹介している。
〈中国の軍閥。字(あざな)は雨亭。奉天(ほうてん)省(現、遼寧(りょうねい)省)海城県の人。馬賊から身をおこし、日露戦争では日本軍の別働隊として暗躍。のち清(しん)朝に帰順。辛亥(しんがい)革命のとき、奉天(現瀋陽 (しんよう))市内に入り警備にあたる。1916年、奉天将軍の段芝貴(だんしき)を追って督軍になる。1918年、東三省巡閲使、その後、黒竜江、吉林(きつりん)両省を支配下に収めて、東三省全体に君臨する奉天軍閥を形成した。(以下略)〉
まだまだ記述は続くのだが、これから先は多くの人が知っているだろう。これより十年後の一九二八年(昭和3)、国民党の蒋介石に敗れた張作霖は満洲へ引き返したが、日本の関東軍参謀河本大作大佐の工作によって奉天駅付近で乗っていた列車を爆破され、殺害された。日本では真相を隠し「満洲某重大事件」と呼んだ。これで田中義一陸軍大将が首班であった内閣は崩壊したが、関東軍の首謀者は軍法会議にかけられることも無く、結局これが満洲事変そして日本による満洲国の建国につながった。