ちなみに関東軍の名称にある「関東」とは、万里の長城の東端の山海関のさらに東の地域、具体的には満洲(東三省)を意味する。遊牧民であった満洲族が清朝を建てるまでここは「中華」では無く、長城の外側つまり「化外の地」であったが、清朝の成立によって中国の東北地方となり、三つの省が置かれたというわけだ。前出の百科事典では項目を次のように締めている。
〈張作霖は日本の後援を受けて軍閥として成長し、日本もまた彼を利用して東北に進出しようとした。その点で両者は互いに利用しあう関係にあった。しかし、彼が東北の枠を越えて全国的な規模の軍閥に成長すると、アメリカなどとのつながりが生まれ、かならずしも日本のいうことに従わなくなったのが、殺されたおもな理由であろう。〉
そのとおりかもしれないが、多くの歴史書に張作霖は「爆殺事件(満洲某重大事件)」の被害者、そして満洲地域の軍閥の長として突然登場するような形で書かれている。実際はそんな単純なもので無いことは、おわかりだろう。組織でも人間でも一朝一夕には成り立たないし、当然その成立過程には多くのしがらみがある。
たとえば、張作霖は日露戦争のときに一時はロシア側スパイとして動き、日本軍に捕らえられたことがある。スパイは直ちに処刑してかまわないというのが戦場のルールだが、彼はなぜか命を助けられた。日本軍のトップにいた児玉源太郎大将の計らいであり、これには若いころの田中義一中佐もかかわっていたという話もある。これが本当なら、張作霖にとって日本軍は「命の恩人」だったわけである。
また、多くの歴史書で書かれた張作霖の経歴について一つ欠けている部分があるのだが、それはなにかというとバボージャブとのかかわりだ。バボージャブがボグド・ハーン政権と縁を切って独立勢力となった一九一六年(大正5)七月、日本から武器弾薬および食料の援助を受けたバボージャブ軍は内モンゴルから奉天をめざして南下し、これを迎え撃った張作霖軍と激戦して見事勝利を収め、吉林省の一角を占領したのである。
このまま日本の援助が続けば強力なバボージャブ軍は袁世凱の手先である張作霖の妨害を払いのけ、大モンゴル統一に一歩も二歩も近付いたかもしれない。
なぜ張作霖が袁世凱に味方したかと言えば、もちろん経済的利益もあるがやはり日本が対華二十一箇条を中華民国に突きつけたことが大きいだろう。前にも述べたように、このあまりにも強硬な要求は中国民衆を憤激させ結果的に袁世凱の権力を強化する結果を招いた。もっとも、それで民衆の支持を固めた袁世凱が調子に乗って皇帝になろうとしたために、多くの中国人が彼を見捨て日本の大隈内閣も「排袁」に転じたため、結果的にこのことはバボージャブには追い風となった。
一方、張作霖は張作霖でいまさら革命勢力と手を組み袁世凱と対決するよりは、権力の座にある袁世凱にとりあえずは従う姿勢を見せておいたほうがよい、という判断を下したのである。