機銃掃射を浴び戦死
ところで、日本が張作霖を爆殺しようとしたのは昭和三年が初めてでは無く、少なくともこれは二回目だったということをご存じだろうか? バボージャブ軍が奉天に向かう二か月前の五月に、三村豊予備役少尉率いる一隊が奉天駅頭で張作霖を待ち伏せし、馬車ごと爆殺しようとした。
普通の場合、予備役は大佐などの佐官あるいは大尉あたりまで勤め上げた軍人がいったん現役から引退する(召集があれば即応する)ための制度だが、少尉で予備役とはきわめて珍しい。陸軍士官学校を出て少尉に任官して、すぐ軍人を辞めたということだ。もちろん辞めたのは戦争から離れるためでは無く、むしろ大陸浪人のグループに入って陸軍を側面から応援するためだっただろう。
三村は川島浪速の推進する「満蒙独立運動」に深く共感していた。川島の「満蒙独立」は「内モンゴル独立」より「清朝復活」に力点を置いたものだ。大陸には清朝が滅亡した段階でその再興をめざす宗社党という秘密結社が誕生していたが、三村のグループはこの一団とも交流があった。一方、バボージャブは清朝が完全に復興し内モンゴルを支配し続けることは望んでいないが、日本にとっては「敵の敵」であり「味方」ということになる。
関ヶ原の戦いに喩えれば、合戦が始まる前に敵の大将徳川家康を殺してしまえばいいという考え方と同じだが、三村グループはその目的で張作霖に爆弾テロを仕掛けたのである。まずは同志の一人がイスラムの過激派テロのように爆弾を体に巻き付け馬車に体当たりしたが、二台の馬車のうち体当たりしたほうには張は乗っていなかった。そこで三村自身が爆弾を投げつけたが狙いが外れ、これが三村自身の命を奪った。張はじつに好運だった。
張作霖の好運は、バボージャブの不運でもある。それでもバボージャブは進軍し、張作霖軍を撃破して拠点を確保したうえで奉天まであと一歩の距離に迫った。戦はやってみなければわからないし、野戦と違って攻城戦では張作霖軍もむざむざやられはしなかったかもしれない。しかし、仮に張作霖が勝ったとしてもその勢力は相当に消耗するはずで、バボージャブにとっても日本にとっても邪魔な張作霖を排除する絶好のチャンスであった。それに、当初の約束では関東軍も部隊を派遣しバボージャブを支援することになっていた。
ところが、なんと関東軍からバボージャブに「待った」がかかった。張作霖軍とは戦わず内モンゴルに引き揚げるように、という勧告があったのだ。なぜそんなことになったのか? これこそバボージャブにとって最大の不運と言うべきかもしれないが、その年の六月に袁世凱が病死したことで、日本政府の方針が一八〇度転換したのだ。
選択肢としては、このままバボージャブ軍を全面的に支援し奉天を制圧しモンゴル独立の機運を高めるという道もあったはずだが、大隈内閣が選んだのは、袁世凱のあとに政権を引き継いだ黎元洪とさまざまな懸案を解決していくという、まったく逆の道であった。黎元洪は、袁世凱の死後すぐに中華民国大総統になった。この時点で袁世凱はすでに皇帝制を廃していたので、中華帝国は民国(共和国)に戻っていたのだ。
バボージャブ軍がいかに精強とは言え、総数三千である。それにくらべれば、まさに「腐っても鯛」と言えば言い過ぎかもしれないが、大隈内閣の気分はそんなところであっただろう。黎元洪は漢民族の中華民国の代表なのである。
ここで黎元洪(1864~1928)の経歴に簡単に触れておくと、もともと清国海軍の軍人で日清戦争では黄海海戦に参加したこともある。その後に革命派に転じ.その功績で孫文が中華民国臨時大総統に推戴されたときはその下で副総統を務め、大総統が袁世凱になった後も引き続き副総統を務めた。こう言えばおわかりのように、ナンバー2に徹し自分の主義主張を面に出さないタイプだった。袁世凱の帝政復活にも異を唱えずナンバー2の座にとどまっていたため、袁の病死で政権が転がり込んできた。大隈内閣は「ストロングマン」袁世凱より扱いやすいと見たのだろう。