さて、現在分析している一九一七年(大正6)には原爆はまだ「夢の話」だが、大隈内閣に代わり寺内内閣が前年十月に発足しており、この年の一月にはとりあえず袁世凱の「後継者」で中華民国の「黒幕」段祺瑞を支持する(満蒙独立運動からは手を引く)方針を定めた。
段祺瑞とは何者かと言えば、
〈[1865~1936]中国の軍人・政治家。北洋軍閥安徽(あんき)派の首領。合肥(安徽省)の人。字(あざな)は芝泉(しせん)。袁世凱(えんせいがい)の腹心として、辛亥(しんがい)革命後、陸軍総長。袁の死後、北京政府の実権を握り、南方革命派を弾圧した。トアン=チーロイ。〉
(『デジタル大辞泉』小学館)
そして、そうした方針の下に、じつに「姑息な」援助を行なった。
西原借款という。
〈第一次大戦中、寺内内閣が北京の軍閥の段祺瑞(だんきずい)に供与した1億4500万円の借款。首相の私設秘書西原亀三が担当した。段派の権力失墜により回収不能となり、内外の非難を浴びた。〉
(前掲同書)
この時代、子供でも知っていた「国民の合言葉」を思い出していただきたい。「十万の英霊と二十億の国帑」である。日露戦争で二十億円もの国費が投入されたということだ。それにくらべれば少ないとは言え、膨大なカネであることはわかるだろう。しかも、その巨大な借款が大日本帝国では無く首相の個人秘書名義で貸し出され、しかも「貸し倒れ」になったというのである。
もちろん、最終的には国民の負担となった。それにしても、いくら「個人秘書名義」とは言え、寺内内閣の意向であることはミエミエであり、だからこそ「姑息」と評した。じつは、これは寺内内閣のこれからの政策全体を表すキーワードになる。ご記憶されたい。