「皆殺し」は歴史の法則
このような状況のなか、この年一九一七年の二月(じつは3月)に、世界史を揺るがす重大事件が起こった。人類初の共産主義国家ソビエト連邦の誕生である。
まずは、その前段階として二月革命というのがあった。ロシア暦二月二十三日に起こった革命だ。この時代、ロシア帝国は他のヨーロッパ諸国とは違う暦、つまりユリウス暦を使っていた。ユリウス暦はローマ帝国初期から使われていた暦だが一部不正確な部分があって、西ヨーロッパではそれを修正したグレゴリオ暦を使っていた。ローマ教皇グレゴリウス13世の命令で作られた暦である。それゆえに、ロシア正教のロシアは採用しなかった。二月革命なのに「じつは3月」というのは、そういうことだ。
ロシア帝国は、第一次世界大戦では英仏側に立って参戦した。「勝ち組」に乗ったわけで、それなのになぜ革命が起こったかと言えば、日本が明治維新でやったようにロシア帝国を近代化できなかったからだろう。
日露戦争に敗れた後も、ロシア帝国は軍備の近代化等がスムースに進まなかった。じつは一九〇五年(明治38)一月に旅順要塞が日本に陥落させられた直後、ロシア帝国では民衆の不満が爆発し改革を求める暴動が起こった。あわてたニコライ2世は国会開設などを約束し混乱を収拾したのだが、結局この約束は守られず仕舞いだった。これを「第一次ロシア革命」と呼ぶ向きもある。
一方、ドイツ側から見れば本国はフランスとロシアに挟まれており、地政学的には不利な状況にあったが、ドイツ軍はロシアには強かった。その象徴がタンネンベルクの戦い(1914年)で、ドイツ軍は数に勝るロシア軍に大打撃を与え撃退した。
専制国家では君主は外国との戦争に勝ち続けなければならない、そうしなければ民衆の支持を失う。戦争に弱かったナポレオン3世の例はすでに述べたところだが、日露戦争に敗れた皇帝ニコライ2世は国会開設の約束も果たさず、ドイツとの戦いで面目を失った。また経済状況も悪化し、国民は食糧不足に悩まされるようになった。
フランス革命もそのきっかけは「パンをよこせ」だったが、ロシア革命も同じで二月二十三日(グレゴリオ暦3月8日)の「国際女性デー」にあたり、女性労働者の「パンよこせ」デモを皮切りにロシア全土がゼネスト状態に入った。そしてこうした場合デモの鎮圧にあたるはずの軍隊までが民衆に呼応したため、ついにニコライ2世は政権を放棄した。ロマノフ王朝は打倒され、ロシア帝国は崩壊したのだ。
ただ、この二月革命はフランス革命と同じくブルジョアジーによる専制政治打倒であり、共産主義体制をめざすものでは無かった。また、このとき各地に自然発生的に生まれた労働者と兵士の合同組織をロシア語で「ソビエト」といった。のちに国号が「ソビエト連邦」になるのは、それが由来である。