当初成立したこのブルジョワ政権は、弁護士出身のアレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキーが首班となり、ケレンスキー政権と呼ばれたが、この二月革命は長続きはしなかった。戦争継続の姿勢を取り、国有財産の分配も徹底したものでは無かったからだろう。そこで、弾圧を逃れてスイスにいた革命家ウラジーミル・イリイチ・レーニンは、「敵の敵は味方」とばかりにドイツと交渉しロシアへの帰還を支持するよう求めた。
前にも述べたように、ドイツはロシア攪乱の好機と考え、レーニン一行を「封印列車」でロシアへ送り込んだ。ロシアに戻ったレーニンは、その後紆余曲折はあったものの同士のボルシェビキ(本来は「多数派」の意味)のリーダーとなってケレンスキー政権を打倒し、新たな共産主義に立脚する政権を樹立した。これが十月革命であり、ソビエト連邦の始まりである。
ただし、ソビエト連邦はすんなりと成立したわけでは無い。まったく新しい理念の国家を作ろうというのだ。ついていけない者もいれば、徹底的に反対する者もいる。そこで一九一七年から二二年までの五年間、ロシアは内戦状態となった。共産主義を象徴する色が「赤」であるため、ソビエト連邦を支持する側は「赤軍」、ロシア帝国を支持する側は「白軍」と呼ばれた。
また、帝政を支持するロシア人は「白系ロシア人」と呼ばれた。いまでもときどき誤解している人がいるが、これは人種的な呼称では無い。白人であろうと黄色人種であろうと、ロシア帝国を支持するロシア人のことを「白系」と呼ぶのだ。
ただ、同じく滅んだ清帝国の場合、孫文が理性的な措置を望んだこともあり、さすがの袁世凱も「皇帝一家皆殺し」は実行しなかった。何度も説明したように、袁世凱は孫文から「中華民国の総統」の座を受け継いだとき、すでに「新中華帝国の皇帝」になる野望を抱いていたと考えられるのだが、それでも「清王朝の皇族皆殺し」に走らなかったのは、孫文の時代から革命運動のスローガンとして「漢民族の(支配)復興」が掲げられていたからだろう。
清の皇族はすべて漢民族とは違う満洲族だからだ。つまり、王朝復興を掲げて清の皇族を立てても、漢民族の支持は得られない。逆に言えば、だからこそ満蒙独立運動(実態は清朝再興)は日本人が主導することになり、最終的には満洲国の建国にまで進んでしまったのである。
これとは事情がまったく異なるのがロシアだった。たしかに十月革命によってロマノフ王朝はいったん滅びたが、ツァーリ(ロシア皇帝)の支配は遡れば東ローマ帝国の時代から続く伝統であり、国家の宗教であるロシア正教とも固く結びついている。革命によって多くの特権を失う貴族層だけで無く、一般民衆も「パンさえ得られれば」ロマノフ王朝を支持する者も少なくない。
ここは日本の江戸時代を思い出していただきたい。一般民衆は平穏な生活さえできれば、別に声高に権利を主張したりはしない。「お上には従う」。それが庶民というものである。そうなると革命を完成させたい人間にとって、もっとも都合の悪い事態とはなにか? それは「白系ロシア人」たちが「統合の象徴」をロマノフ王朝の皇族に求め、その結果擁立された「新たな皇帝」が「新ロシア帝国」つまり白軍の総帥となって革命に対抗してくることだろう。