「よくぞ阿部を殺した」
さて、一九一七年当時の日本人の気持ちになって考えるには、このソビエトに対する天皇信仰がもたらす強い反感のほかに、もうひとつ押さえておかねばならない心情がある。それには、英米や中国との協調路線を志向した山本権兵衛内閣下で起こった、外務省の阿部守太郎政務局長の暗殺事件を思い出していただきたい。
これは一九一三年(大正2)の出来事だから、それほど昔の事件では無い。阿部局長は、当時の袁世凱政権とのトラブルを平和的に外交的手段で解決しようとしていた。それが「軟弱外交」ということで右翼青年に惨殺されたのだが、そうした青年たちに強い影響を与えていたと考えられる当時の新聞、とくに『東京日日新聞』のコラム「近事片々」の内容を覚えておられるだろうか。
『逆説の日本史 第二十八巻 大正混迷編』に詳しく引用したが、簡単に言えば当時袁世凱政権下の中国で日本人が虐殺された事件(南京事件)を平和的に解決するなどもってのほかで、この際日本軍を派遣して武力で問題を解決すべきだというもので、そのなかの一行に「善後の處置は獨逸の膠州灣占領に倣う可き耳と戸水博士の論亦傾に値ひす」とある。
第二十八巻で詳しく述べたところだが念のために繰り返すと、要するに日本の強硬派は、かつて清国の時代にドイツ人宣教師が虐殺されたことを口実に出兵したドイツ軍が膠州湾を占領し植民地にしてしまったように、中華民国に対して南京事件の解決を求める形で出兵すればいいではないか、ということである。
良心的な政治家犬養毅は、「火事場泥棒の真似をするな」と、こうした風潮を厳しく批判した。しかしそれはあくまで少数意見であって、日本人の多くは「よくぞ阿部を殺した」と思っていたのである。だからこそ、そうした傾向に歯止めをかけようとした犬養毅も、結局五・一五事件で暗殺されることになってしまうのだが、ここで問題なのは「戸水博士」という言葉になんの注記も説明も無い、ということだ。
もちろんこれは戸水寛人のことなのだが、新聞がこういう書き方をするということは現在もそうだが「この人のことは誰もが知っているゆえに説明不要」だからなのである。われわれはいままったく忘れているが、それが当時の人々の常識なのだ。ならば、その常識をもう一度確認しておく必要がある。彼は何者か? 何を主張したのか? 思い出していただきたい。人名事典から「経歴」の一部を引用する。
〈国家主義者で、36年小野塚喜平次らと政府の対露軟弱外交を非難、「七博士」の一人として意見書提出、またロシアのバイカル以東割譲を主張、“バイカル博士”といわれた。日露講和条約締結では5博士と連署、批准拒絶を請願、休職処分となった。〉
(『20世紀日本人名事典』日外アソシエーツ刊)
日露戦争当時に、日本の国力でバイカル以東のロシアの領土を奪ってしまえなどというのは完全な夢物語であり、帝国主義に参入した桂太郎首相ですら苦笑したほどのものである。しかしここで注目していただきたいのは、その夢物語の提唱者に「バイカル博士」という「あだ名」がついたということだ。