もちろんそのように呼ばれたのは「ほら吹き男爵」のように揶揄する姿勢があったことも間違い無いが、マスコミのなかで通用する「あだ名」がついたということは、彼が有名人になったということなのである。イギリスで「切り裂きジャック」と呼ばれた男は最後まで正体は不明だったが、彼がどんな男でなにをしたかは子供でも知っていた。同じように、当時の日本では「バイカル博士」と言えば戸水寛人という本名は知らなくても、「ロシアからバイカル湖以東の領土を奪ってしまえという夢物語を桂首相に実行するよう迫ったトンデモ学者」という広い認識はあった、ということだ。
では、ここであえて問おう。彼の主張はなぜ夢物語で実行不可能なのか? それにもかかわらず、そうせよと彼はなぜ主張するのか?
後者の問いから答えれば、そうすることで日本は絶対に安全になるからだ。領土をバイカル湖以東のロシア領までに広げてしまえば、日本本土だけで無く日本が南満洲に獲得した利権も安泰である。すなわち、「十万の英霊」は安らかに眠ることができる。だから日本にとっては絶対にやるべきこと、なのである。
では、それなのになぜ「実行不可能」なのかと言えば、ロシア帝国は国土面積で日本の約四十五倍もあり、財政規模でも日露戦争当時日本の約十倍もあった。日本が日露戦争に勝ったことによってこの差は多少縮まったとは言え、依然としてロシア帝国は大国であり日本が手を出せるような国では無かった。
しかし、その状況はロシア革命によってまったく変わった。たしかに赤軍によって「バイカル湖以西」にはソビエト連邦という国家が建国された。しかし、その体制を認めない白軍という勢力が、とくに「バイカル湖以東」において赤軍と抗争を始めた。こうした場合の常だが、反乱軍はしばしば外国勢力の援軍を求める。欧米列強よりもロシアに近いのが、隣国の日本である。
おわかりだろう。「夢物語が実現するチャンスが来た」と、多くの日本人は考えたのである。
(第1434回に続く)
【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『「言霊の国」解体新書』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。
※週刊ポスト2024年11月1日号