政府の無策が招いた「大米騒動」
ひょっとして、新しい読者はなぜ「反対」になったのかと不思議に思うかもしれない。たしかに、これはきわめて異常なことである。なぜそうなったかについても以前書いたことがあるのだが、その内容があまりに広まっていないと思われるのでもう一度書いておこう。この奇跡的な出来事が起こったのは、並河成資という天才的な農業技術者がいたからである。どんな人物なのか?
〈並河成資 なみかわ-しげすけ 1897~1937
昭和時代前期の品種改良家。
明治30年8月16日生まれ。新潟県農事試験場の技師として、技手の鉢蝋清香の協力を得て、昭和6年極早生・多収・良質の水稲品種「農林1号」を育成した。農林省農事試験場中国小麦試験地にうつり、小麦の育種研究にあたるが、昭和12年10月14日自殺。41歳。京都出身。東京帝大卒。〉
(『日本人名大辞典』講談社刊)
手前味噌だが、いま私が述べた知識があってこそ並河という男がどんなにすごい人物かわかる。彼の開発したイネ(水稲農林1号)は、「極早生(普通の早稲より栽培時間が短くて済む)」なのに「多収」で「良質」なのである。これ以前にそんなものを作ると言ったら、頭がおかしいと思われただろう。そんなことは常識的に考えて絶対にあり得ない。にもかかわらず、並河はそれを成功させた。まさに天才ではないか。
そして、じつは「水稲農林1号」には、もうひとつイネの常識を完全に覆したことがある。それは「寒さに強い」ということである。思い出してほしい。イネはそもそも熱帯原産の植物なのである。だから、夏は一時的に酷暑に見舞われる東北地方ならば栽培可能だが、北海道では無理だった。だから、朝廷も武士の政権である幕府もコメ政権であるがゆえに「蝦夷地」を領有しようとはしなかった。
明治になって維新政府が北海道開拓に乗り出したのは、放置しておけばロシアに奪われる危険性があったからで、コメを栽培しようとしたわけでは無い。そもそも当時は北海道で栽培できるイネなど無かった。だが、現在は北海道の一部でもコメが穫れるようになった。おわかりだろう、コシヒカリなどと同じく「水稲農林1号の子孫」だからこそ、それが可能になったのだ。
このことを再び書いたのは、並河成資の功績を知らない人があまりにも多いからだ。江戸時代、東北地方屈指の大藩である南部藩では冷害による飢饉があたり前だった。元はと言えば、大和朝廷が東北地方には不向きな稲作を強制したせいなのだが、その結果多くの餓死者を出した。
これ自体はフィクションだが、小説『壬生義士伝』(浅田次郎著)に登場する「新選組で一番強かった男」吉村貫一郎は実在の人物で、彼の生まれた南部がいかに貧しく飢饉に悩まされていたか活写されている。嫌な話だが、江戸時代の日本で「餓死がもっとも多い国」は南部藩だったのである。それを変えたのが並河だ。
南国ながら火山灰大地でコメがまったく穫れず餓死者の多かった薩摩に、琉球からカライモ(いわゆるサツマイモ)を持ってきた船乗り前田利右衛門は「カライモオンジョ」と親しまれ神様として神社に祀られている。薩摩から餓死者を一掃したからである。並河は南部藩も含めた「東国」から餓死者を一掃した。時代が違うとは言え、北陸、東北の人々はあまりにも「冷たい」と思うのは私だけだろうか。「水稲農林1号」はそれまでのイネとはまったく違うもので、私は別の品種名をつけたほうがいいとすら思っている。