さて、話を一九一八年(大正7)に起こった「大米騒動」に戻そう。この騒動は、凶作が引き金では無かった、じつは、寺内内閣がシベリア出兵に踏み切ったことで当然「兵糧米」の需要が高まると感じた大地主や相場師が、「買占め、売り惜しみ」に走ったことがきっかけだった。
そもそも日本は、第一次世界大戦の混乱によって、とくに工業が発展したことはすでに述べた。繰り返せば、機械製品に強いイギリス、化学製品に強いドイツがともに交戦国となり、世界の需要を賄えなくなった。そこで、品質は劣るものの安価な日本製品が輸出商品としてもてはやされるようになり、当然ながら生産量も増えた。それは、これまで地方で第一次産業である農業に従事していた若者が、都会の工場で第二次産業である工業に従事するようになったということだ。
その結果、日本の経済自体は発展したが、農業従事者が減ったことによってコメの生産が需要を満たせなくなった。そうしたところにシベリア出兵が発表されたので、コメが買い占められ米価の急騰を招いたのである。こうした場合、庶民を救うためには外国産米の緊急輸入という手があり、それを円滑に進めるためにはコメの輸入関税を一時的に撤廃すればいいのだが、寺内内閣はそうした対策を一切取らなかった。それは「持てる者」つまり大地主層の不利益になり、その支持を失うことを怖れたからだと言われている。
米価の値上がりはどのような経過をたどったのだろうか?
〈(寺内内閣は)七月にはシベリア出兵方針を固めて、買占めに決定的な拍車をかけた。このため神戸市を例にとれば、一升当り七月十六日三十六銭八厘、八月一日四十銭七厘、七日五十五銭三厘、八日六十銭八厘と、八月に入って一週間のうちに五割も値上りし、民衆の不安はその極に達した。政友会はじめ諸政党は、まったく傍観していた。〉
(『国史大辞典』吉川弘文館刊 「米騒動」の項より。項目執筆者松尾尊ヨシ[※ヨシの時は公に儿])
寺内内閣は景気をよくするためかインフレ政策も進めていたが、これも民衆の不安に拍車をかけた。インフレはデフレの逆で、給料は増えても貨幣価値は低下するからである。要するに、コメは庶民にとって「高嶺の花」になってしまった。そうしたなか、日本歴史始まって以来のことだが、女性が「一揆」を起こした。
〈七月二十三日富山県魚津町の漁民妻女が、米の移出を差し止めようと海岸に集合して以来、付近に不穏な気分がひろがり、八月三日になると西水橋町の漁民が米屋や有力者に対し、移出禁止・安売りの哀願の実際行動に出た(越中女一揆・女房一揆)。同様な運動は富山湾沿岸にひろがり、連日の中央・地方諸新聞の報道が、騒動の全国化をもたらした。〉
(引用前掲書)
この行動は、コメを略奪したのでは無く県外にコメが運ばれることを阻止したわけで、いまなら自分の目の前にあるコメに手が届くのに、いったん商品として県外に出されてしまうと高嶺の花になってしまう、ということだったのだが、これが全国に報道されると各地で呼応する動きが広まった。
寺内内閣はあわてて軍隊まで動員し沈静化を試みたが、庶民の不満の炎は一向に収まらなかった。これでは内閣はもたない。
(第1443回に続く)
【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『真・日本の歴史』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。
※週刊ポスト2025年1月31日号