作家の井沢元彦氏による『逆説の日本史』
ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。今回は近現代編第十四話「大日本帝国の確立IX」、「シベリア出兵と米騒動 その19」をお届けする(第1444回)。
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原敬は、日本憲政史上初の爵位を持たない(華族では無い)内閣総理大臣であった。だから「平民宰相」と呼ばれ、当初は庶民からも支持された。しかし、じつは一般に「庶民派」という言葉から連想される人物では無かった。
戦後を代表する庶民派政治家と言えば、おそらくは田中角栄元首相(1918~1993。第64、65代内閣総理大臣)だろうが、原はむしろこうした人物像とは対極の硬骨漢だった。
前回紹介したように、明治維新直後の戊辰戦争において奥羽越列藩同盟と戦った官軍は「白河以北一山百文」と嘲笑したが、それを逆手に取った原は自ら「一山」と号した。原は列藩同盟に加わった南部藩の家老の家に生まれたが、戊辰戦争で敗北した南部藩は賊軍とされ廃藩に追い込まれた。それでも原家は士族ではあったが、敬は嫡男では無く分家して平民になったので、バリバリの庶民派では無い。そして藩が潰れた後、苦学して外国語を学び『郵便報知新聞』の記者等を経て外務省に入省し、井上馨や陸奥宗光の知遇を得て順調な出世コースを歩んだ。
だが、もともと官界は肌に合わなかったのだろう、立憲政友会の発足に参加し、政界に進出した。そして政界の大物となった原に、寺内正毅内閣当時の一九一七年(大正6)、たまたま郷里の盛岡に帰省していたところ地元有志から南部藩士戊辰殉難者五十年祭を開催するので祭文をいただきたいという依頼がきた。原は快諾し、式場に赴いて自ら祭文を読み上げた。
〈同志相謀り旧南部藩士戊辰殉難者五十年祭本日を以て擧行せらる、顧るに昔日も亦今日の如く國民誰か朝廷に弓を引く者らんや、戊辰戰役は政見の異同のみ、當時勝てば官軍負くれば賊軍との俗謠あり、其眞相を語るものなり。今や國民聖明の澤に浴し此事實天下に明かなり、諸子以て瞑すべし。余偶々郷に在り此祭典に列するの榮を荷ふ。乃ち赤誠を披瀝して諸子の靈に告ぐ。
旧藩の一人 原 敬〉
(『原敬日記 第四巻 總裁就任』福村出版刊)
〈大意〉
〈同志が集まって戊辰戦争で亡くなった南部藩士を弔う儀式が本日挙行された。歴史をふり返るに、昔もいまも国民は誰一人朝廷に反逆しようなどとは思っていない。それが戊辰戦争で争ったのは、たまたま政見の違いがあっただけだ。当時「勝てば官軍、負ければ賊軍」と流行り歌で歌われていたとおり、それが真相である。その後、明治大正の世となり、国民は天皇の恩恵に浴し、天下は平穏である。殉難者よ、安らかに眠ってくれ。私はたまたま故郷におり本日式典に参列する栄誉を受けた。ここに天皇への深い忠誠心をあらためて包み隠さず打ち明け、殉難者の霊に捧げるものである。
南部藩の一員であった原敬〉
じつは、これは大変思い切ったことを言っているのだが、おわかりだろうか。天皇を無視することが大好きな(笑)左翼学者の本を読んでもまったくわからないだろうし、そもそもこの祭文が紹介されることも無いだろう。しかし、じつは原敬という人物を語るのに、この祭文はきわめて重要な史料である。
原はまず、「官軍賊軍の別などというものは無い。政見の違いがあっただけだ」と言っているが、そもそも官軍に「錦の御旗」を授け東北の賊軍を討伐せよと命じたのは誰か。もちろん西郷隆盛など熱烈な討幕派の思惑はあったにせよ、これは形式的には明治天皇の命令である。つまりこれを言うことは、じつは「明治天皇の命令が間違っていた」と言っているのと同じことなのだ。
天皇批判というのは、戦前においてはそれだけですべての地位を失いかねない大変な「反逆行為」だ。場合によっては、原を失脚に追い込めるほどのネタなのである。それなのに、なぜ原はそこまで言ったのか? 怨霊鎮魂いや「賊軍」として倒れた南部藩士を怨霊にしないためである。