「普選反対」で選挙に圧勝
理由はどうあれ、原は爵位を持っていなかったから「平民宰相」であったことは間違い無い。そしてそれは、同じ平民から見れば「自分たちの仲間」が宰相まで上り詰めたということだ。当然、彼らは原が「平民寄り」の政策を取ることを期待した。では、この時期の平民つまり庶民が政治に対してもっとも望んでいたことはなにか? それは、普通選挙の完全実施である。
普通選挙は制限選挙の反対語で、制限選挙とは一定の国税を納めた成年国民男子のみに衆議院選挙における選挙権(投票権)、被選挙権(立候補権)を認める、という制度である。こうなったのには、日本ならではの歴史的経緯がある。欧米では、キリスト教(プロテスタント)の「神の下の平等」がフランス革命(1789年)の行動原理でもあったので、これをもとに三年後の一七九二年に世界初の普通選挙が実施された。
ただ注意すべきは、この「普通」というのは成年男子のみに適用される概念であり、女子は最初から排除されていたということだ。じつは、フランスで男女平等の本当の普通選挙が実施されたのはなんと一九四五年、つまり昭和二十年であった。日本では、敗戦によって被占領国家となりGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の強制的な改革によってようやく一九四六年(昭和21)に男女平等の普通選挙が実施されたのだが、フランスは日本と「ほぼ同時」だったのだ。
キリスト教には、「女子は別枠」で扱う長い伝統があったのである。また、スイス連邦と言えば日本では先進国というイメージがあるが、男女平等の普通選挙が法律によって認められたのは日本よりはるかに遅い一九七一年のことだった。スイスは永世中立国で国民皆兵だが、「銃を持って国を守る男子だけが参政権を持つべきだ」という伝統的な考えが根強かったことによる。それぞれ「お国事情」というものがあるのだ。
大日本帝国は、前にも述べたようにキリスト教の神のような絶対神が一般的では無いので、幕末以降天皇を神の座に押し上げ「平等化推進体」となして四民平等(士農工商の撤廃)を成し遂げた。しかし「士族」の福澤諭吉が『学問のすゝめ』を書いたのは、農工商の人々は近代国家の一員となるには教養や知性が不足していると考えたからだろう。これが「制限選挙で当面はいくべきだ」という社会的コンセンサスにつながっていく。
ただ「選挙権は士族のみに限る」などと言えば、「四民平等はどこへいったのだ!」と大問題になる。しかし、所得の多寡ならば身分の上下と直接つながらない。商人でも多くの収入があり、そのぶん納税している人間は国家に貢献しているから功労を認めて選挙権を与える、というのは筋がとおる。つまり、納税額によって選挙権を与えるのは制限選挙としては都合のいいやり方だったのである。
ちなみに、このやり方を世界で最初に考えたのはフランスで、フランス革命直後の選挙はこの形で実施された。日本にとっても「民主主義(当時は民本主義と言ったが)の本場でもこういう形で制限選挙は行なわれていたのだ」と説得の材料にも使われただろう。
一八八九年(明治22)の大日本帝国憲法発布と同時に衆議院議員選挙法が公布されたが、選挙権が与えられたのは直接国税を十五円以上納めた満二十五歳以上の男子のみで、対象者は総人口の約一・一パーセントにすぎない約四十五万人だったという。このあと衆議院議員選挙法は何度か改正され、そのたびに「納税額」は減額されていったのだが、大逆事件で危機感を抱いた桂太郎が普通選挙を絶対に認めない方針を打ち出し、一時は「冬の時代」となった。
それでも明治以降、ほかならぬ政府が実行した教育制度の整備などによって国民の識字率も高まり、「職人でも新聞が読める時代」が到来していたので、原内閣時の一九一九年(大正8)、納税額が直接国税三円以上と大幅に減額され、総人口の約五・五パーセントが投票できる選挙法が成立した。