才能と実力が認められた選手であってもプロの世界で成功が約束されているわけではない。野球ではないが一つのエピソードを書いておきたい。私が20年弱お世話になった「帝拳ボクシングジム」で聞いた話だ。
帝拳ジムといえばボクシングの世界チャンピオンを多数輩出してきた超のつく名門だ。当然、若き才能がひっきりなしに門を叩く。そこに高校6冠の実績を引っ提げて入ってきたスターがいた。後のWBC世界フェザー級王者、同スーパーフェザー級王者の粟生隆寛だ。
高校時代に58連勝した粟生は「エリート・ボクサー」と表現されることが多い。しかし世界への道は険しく、才能だけで駆け上れるほど甘くはなかった。
実力の拮抗した相手と拳を交える世界戦、しかも12ラウンドの長丁場ともなれば精神的にも肉体的にも削られる。ダメージのピークが訪れるのはたいてい7ラウンド前後だ。
ある試合で粟生はギリギリの戦いを強いられた。試合の中盤、疲れ果ててコーナーの椅子にもたれていた。その追い詰められた粟生の様子を見て、声をかけたのはセコンドの田中繊大トレーナーだ。田中トレーナーは、いま粟生に必要なのは技術的なアドバイスではないことをすぐに悟った。そして粟生をこう奮い立たせた。
「粟生、お前に足りないのは何だ?」
世界チャンピオン、マルコ・アントニオ・バレラを指導して名を馳せた田中トレーナーは、帝拳に所属しながらも多くの世界チャンピオンから「練習を見てほしい」と依頼が届く名トレーナーだ。田中トレーナーは粟生の闘志に火をつけるため、あえて問うたのだ。
粟生は立ち上がりながら、答えた。
「あと一歩、前に出る勇気です!」
田中トレーナー、ドラゴンズも指導してほしい。
(第13回に続く)
※『人生で残酷なことはドラゴンズに教えられた』より一部抜粋・再構成
【プロフィール】
富坂聰(とみさか・さとし)/1964年、愛知県生まれ。拓殖大学海外事情研究所教授、ジャーナリスト。北京大学中文系中退。1994年、『龍の伝人たち』で21世紀国際ノンフィクション大賞・優秀賞を受賞。『中国の地下経済』『中国の論点』『トランプVS習近平』など、中国問題に関する著作多数。物心ついた頃から家族の影響で中日ファンに。還暦を迎え、ドラゴンズに眠る“いじられキャラ”としての潜在的ポテンシャルを伝えるという使命に目覚めた。