作家の井沢元彦氏による『逆説の日本史』
ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。今回は近現代編第十四話「大日本帝国の確立IX」、「シベリア出兵と米騒動 最終回」をお届けする(第1451回)。
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「中立協定」によって日本軍の介入を阻止したヤーコフ・トリャピーツイン率いる赤色パルチザン約四千三百名は、やすやすと市内に侵入した。
日本軍にとって不幸だったのは、白軍との連携が断たれたことで兵力が不足し、町から少し離れた丘陵地帯にあった海軍の通信基地が赤色パルチザンに占拠されてしまったことだ。これで日本軍は外部との通信手段を完全に奪われてしまった。それでも現地の情勢の緊迫を感じた現地司令部は、まず陸軍が援軍を検討したが兵力に余裕が無く、海軍は海軍でじゅうぶんな能力のある砕氷船を所持しておらず海路からのニコラエフスク到達は不可能だった。
さらに間の悪いことに、通信手段が奪われる直前にニコラエフスク駐屯部隊が受け取ったのは、この地方を統括する第十四師団長・白水淡中将の「赤軍と白軍の争いに介入するな」という師団長命令だった。そして、トリャピーツインもそれを把握していた。彼はほくそ笑んだだろう。
兵力は日本の十倍以上あるものの「ならず者」の寄せ集めである赤色パルチザン軍にとって一番困る事態は、日本軍と白軍が合同してニコラエフスクに「籠城」することだ。大陸の都市というのは北京(城)などが典型的だが、外敵が攻めてきたときは守りを固めやすい構造になっており、少人数でも大軍にある程度は対抗できる。ところがこの命令が届いたことによって、日本側から見れば白軍との共闘は命令違反になってしまい、共闘の道がふさがれてしまったのだ。
白軍の幹部は日本軍幹部を説得し、なんとか共闘しようとしたが日本側は師団長命令には逆らえない、とこれを断った。絶望した白軍幹部はどうしたか?
〈日本軍本部が赤軍派の入市を妨げないという悲しむべき決定をしたことを知ると、守備隊長メドヴェーデフ大佐は合意発効日の夕方日本軍本部に向かった。メドヴェーデフは日本軍本部に過去のパルチザン戦における支援に対する心からの謝意を表し、(中略)夜の一〇時に家に戻ると、当直の女電話交換手と静かに別れの挨拶をして自室に入り、こめかみを撃って生命を断った…。〉
(『ニコラエフスクの日本人虐殺 一九二〇年、尼港事件の真実』アナトーリー・グートマン著 長勢了治訳 勉誠出版刊)
赤軍派の入市日に定められていた翌朝(1920年〈大正9〉2月28日)、メドヴェーデフの側近三名も同じ方法で命を絶ったが、彼らの「自決」の理由も武装解除されたうえの無条件降伏はロシア軍の名誉が許さない、ということであった。しかしメドヴェーデフの脳裏には、市民を最後まで守れなかったという責任感があったのではないか。(白系ロシア人の)市民に暴行・略奪・虐殺はしないという赤色パルチザンの約束など、守られるはずも無いということだ。
なぜ、そう言えるかはおわかりだろう。この時代の赤色パルチザンは「ならず者」の集まりであり、指揮官が「乱妨取り」を認めることによって団結を保っていたからだ。それは、ロシアという「後進国」に生を受けた軍人にとって常識だったはずだ。『ニコラエフスクの日本人虐殺』の著者グートマンは、これに続く記述で次のように述べている。
〈恥ずべき降伏と赤い強盗の嘲笑よりも自殺を選んだロシア軍将校は悲劇的にかつ英雄的にこの世を去った。彼らは軍人仲間とニコラエフスク市民の中では最も幸せだったことがあとでわかった…。〉
(引用前掲書)
なぜ、自ら死を選んだ人間が「最も幸せ」なのか? トリャピーツインはニコラエフスクに「入市」した直後に、市内の富裕層であった白系ロシア人や白軍兵士への暴行・略奪・虐殺を始めた。ただ、それは民衆を広場に集めて片っ端から銃殺するというような単純なものでは無かった。